解釈3

映画『流浪の月』のある場面について、ずっとモヤモヤしていたのだが、このたび、めでたくモヤモヤが晴れた。

文が幼い更紗の唇についたケチャップを拭うシーンをどうしてあの場面で入れたのか。自分はそう捉えないけれど、小児性愛者と誤解する人もいるだろうということは十分想像されるから。それに、原作では2人でアイスクリームを食べるシーンの前だったし、と。でも、その誤解を生むかもしれないこともまた狙いの一つだったのかな。「人は見たいようにしか見ない」。

『流浪の月 シナリオブック』の凪良ゆうさんと李相日監督の対談で、ケチャップを拭うシーンが「文のなかで更紗への想いが生まれた瞬間」と凪良ゆうさんは言い、李監督は「更紗もまた文への想いが生まれた瞬間」だと。

映画を観て、互いへの想いが生まれた瞬間は、私は2人でアイスクリームを食べるシーンだと思っていた。夕食時、更紗がアイスクリームを食べながら、誰にも言えない秘密を話し、夕食を食べていた文が、食べるのをやめて更紗と一緒にアイスクリームを食べる。「お尻百叩きだな」と言いながら。

「お尻百叩き」も、文が育児書に則った育てられ方を母親にされていたという背景がわからないから、唐突過ぎて、映画だけでは伝わらない。両親と一緒に住んでいた頃の更紗が描かれていないから、どれほど奔放に育てられたか、そんな更紗に驚き価値観を揺さぶられる文の様子も、注意深く見ないと伝わらない。そこは映画の物足りないところだなと思う。

だけど、原作を読み直すと、2人でアイスクリームを食べていたシーンで、更紗は秘密の告白をしていなかった。映画のあのシーンは原作をより色濃く描いて、とても素敵なシーンになっていた。

湖で警察に取り押さえられるシーンは、原作では「更紗は更紗だけのものだ誰にも好きにさせちゃいけない」とは言っていなかった。

そんなふうに原作を改変しているところ、また、映画オリジナルに挿入されたシーン(オフィーリア文など)は、どれも好きなシーンだった。そして、映像と音、音楽が素敵さを増していた。

結局、「映画は映画で好き」と思ったら、モヤモヤはどうでもよくなった。また観たい。何度でも観たい。

 

 

また白鳥玉季ちゃんと共演してほしいな。