母 樹木希林のこと

 

ACTION 2019年9月13日

 

 

 

武田砂鉄:TBSラジオ「ACTION」、ライターの武田砂鉄です。

幸坂理加:幸坂理加です。

武田砂鉄:ここからは毎日ゲストをお招きする「ゲストアクション」。本日のゲストは、文章家、俳優、音楽家として活動し、樹木希林さん、内田裕也さんの一人娘としても知られる内田也哉子さんです。よろしくお願いします。

幸坂理加:よろしくお願いします。

内田也哉子:よろしくお願いします。はじめまして。きょうはありがとうございます。

武田砂鉄:お越しいただいてありがとうございました。

僕は、樹木希林さんがお亡くなりになった後に、『心底惚れた』という対談本が復刊、初めて刊行になりまして、そこで解説を書かせてもらったという縁がありましてですね、

内田也哉子:実は、今日お邪魔させていただきたかったのは、砂鉄さんにそのお礼を言いたくて

武田砂鉄:あれま!

内田也哉子:お邪魔したのもあります。

武田砂鉄:ありがとうございます。

内田也哉子:私、幾つか本が出ている中で、この『心底惚れた』はとても気に入っている本で、一番気に入っているのは砂鉄さんの解説なので。

武田砂鉄:ああ、大変今日は満足(笑)。

内田也哉子:よく1回しか会っていないのに、

武田砂鉄:そうなんですよね。

内田也哉子:あそこまで掘り下げて母を書いてくれたな、というので、

武田砂鉄:いやいやいや、ありがとうございます。

内田也哉子:すごく、何か深いところでつながったような気で、今日は勝手に(笑)。

武田砂鉄:(笑)僕、2016年に希林さんに一度だけお会いすることがあって、それは竹中労さんという、かつてのルポライターの没後25年を偲ぶイベントだったんですけれども、希林さんが竹中労さんと親交があったということで、その甲府のイベントにいらしていたんですけど、僕も竹中労さんの本を編集したことが、特集本みたいのを編集したことがあったので、それの打ち上げでお会いしたんですけども、その時に浅草キッド水道橋博士が仲介に入っていただいて、3人で。

内田也哉子:強烈な(笑)。

武田砂鉄:強烈なお2人と僕は2~3時間過ごすことができたんですけど、ほんとに頭に焼きついているのは、その打ち上げ会場から希林さんがスッといなくなって、「私はもう一人で食べるからいいわ」と言って。

内田也哉子:(笑)よくやります。

武田砂鉄:サーッと消えていったんですよね。

内田也哉子:1人が好きなんですよね。

武田砂鉄:後で希林さんの本を読むと、いろんな方が語っているのを見ると、希林さんはとにかく姿を消すのが上手かったということを書かれてて。

内田也哉子:あ、そうでしたか(笑)。いいんだか、悪いんだか。

武田砂鉄:それを読むと、あれが、あの風景というのが、消す瞬間だったんだということを思って、すごく感激したんですけどね。

内田也哉子:ありがとうございます。

武田砂鉄:『心底惚れた』という本も、希林さんがまだ旧芸名(悠木千帆)の頃、まだ30代半ばぐらいなので、ちょうど僕よりもちょっと若いぐらいの年齢の時に、いろんな先輩俳優さんたちとかに結構なことをどんどん聞いていくんですね。

内田也哉子:ええ。ジャンルも幅広いですよね。

武田砂鉄:結婚したばかりの人に「最近どうなんですか?アッチのほうは」みたいなことを聞いていくっていう(笑)。

内田也哉子:普通じゃ切り込めないようなことを。

武田砂鉄:すごい切り込めないところで。

内田也哉子:ほんとに母らしさが満載の。今、もしかしたら世の中で受け入れられてる、温かい、何かこう、ちょっとこう、深いメッセージ性をいつも発信しているような母、みたいに捉えられがちなんですけど、私が小さい頃から知ってる母は、まさにこの本の『心底惚れた』の時のような、追いかけても追いかけても届かない、じゃないけど、いつも背中を見て育ったというか、温かいお母さんというよりは、ちょっとヒリヒリした、

武田砂鉄:(笑)

内田也哉子:ちょっと威圧感のある母だったので、この切り込み方というのは、すごく小さい時の母の印象だなって。だんだんだんだんコミュニケーション能力がついてきたのか(笑)丸くなって、ほんとに最期亡くなる時には、とてもいろんな人と交流が。ま、群れるっていうことはしなかったですけど、最期まで。でも、若い時のような鋭さを、自分であえて刀をしまっていたような感じはありますね。

武田砂鉄:この頃の対談なんか読んでいると、本当に相手の言葉尻にうるさいというか、厳しいというか。

内田也哉子:そうそうそうそう(笑)。

武田砂鉄:「今、あなたそうおっしゃいましたけど、どういうことなんですか?」というふうに掘り下げてくるというのが。

内田也哉子:そういう鋭さを常に持っていて、それは日常生活においても、子ども相手でもそうだったから、だから私はちょっと萎縮してしまったんでしょうね。だから、すごく怖かったですね。こうしろ、ああしろということは一言も言わないで、むしろ放任主義だったんですけど。

武田砂鉄:なんか、そういう子どもとして、娘として見るというよりも、人間として「あなたはどう思う?」ということを常に

内田也哉子:そう! そうなんですよ。

武田砂鉄:問われているから、たぶん娘さんとしてみたら、母親であってほしいのに、なんでそんなに一騎討ちしなきゃいけないんだという(笑)

内田也哉子:そうそうそう。

武田砂鉄:場面が結構おありになったんじゃないですかね。

内田也哉子:そうなんですね。でも、それがきっと母なりの、子どもというか、人の育て方?というか、自分で自分を気づかせる、じゃないけど、早めにそういう荒療法でしたんだと思うんですよね。だから、わりと早い年齢から自立せざるを得なかった、みたいなところはありますね。

武田砂鉄:そういうふうに、子どもの頃って、たいていの親は子どもに、こうしちゃいけない、ああしちゃいけないということを言われるけれども、也哉子さんはそれは言われなかったと。

内田也哉子:ええ、ええ。

武田砂鉄:つまり、自由ではあるんだけれど、その自由って、自分にとってはそんなに快適なものじゃなかったのよということを(笑)。

内田也哉子:そうです。本当に重荷でしたね。結局自由を自分で選択することによって、責任は自分が全てとるという方式だったので(笑)。例えば、日本の学校に行きたいって。幼稚園から小学校を卒業するまで、インターナショナルスクールに。それは偶然行ったんですけど、そこから日本語力がすごく低かったので、「日本の学校へ行ってみたい」と言った自分がいて、そのとおりに母も動いてくれたんですけど。

今度、入ってみて、やっぱりそれまでいろんな国の子どもたちと一緒にいたのが、違って当たり前のところから、わりと日本の公立の小学校は、その時は、みんなが同じようにいるっていうことが一番無難というか。そこで私はおのずと浮いてしまって、今思えばいじめだったようなこともあったりして、すごく辛かったんですけど。

それで、泣いて、毎日家に帰ると、母がそれを察知して「何そんな頑張ってるの。辞めればいいじゃない。自分が行きたいって言ったんだから、辞めればいいじゃない」っていう、すごく突き放した一言で、「ああ、またこれか」と思ったんですけど。

でも、私の場合は、あと半年で小学校6年生が卒業できるって目に見えてたので、そんなにひきこもったりとかしないまま、何とか這ってでも、嫌でも何でも、自分で決めたから、あと何日ってカウントダウンしながら行ったっていう感じですかねぇ。

武田砂鉄:だから、それまで、周りに合わせる、みたいな経験を也哉子さん自身はされてこなかった…

内田也哉子:してなかったし、母もそれをよしとしてこなかったから。でも、別にそれがダメってことじゃなくて、揃える、周りの空気を読んで、周りになじむっていうことも素敵だって言ってたし、それができた上で、特に母は表現者だったから、日常は本当になるべく普通に普通に、電車にも乗り、掃除洗濯も自分でしっていう、本当に自分の手と足で生きる、みたいなことをすごく偉大と教わってきたし。でも、何か表現する、母の場合は演技ですけど、その時にはそれを全部糧にして、バーンと大胆に飛躍するって、そこが表現者の魅力的な、ということを教えられてきたので、すごく当たり前の生き方をするっていうことが、たぶん母と父がものすごい破天荒の極みだったから(笑)

武田砂鉄:ええ。みんな存じ上げてますよ(笑)。

内田也哉子:(笑)むしろ尊いものとしてたたき込まれて。だから、私はちょっと、自分で今でもバランス感覚が取りづらいというか。過激なものを見て育ったわりには、普通であることが素晴らしいと教わって、自分でも、過激なのは危ないってわかってるから、常にバランスを取ろうと中庸を目指してきて、自分の家庭は本当に普通に、お父さんとお母さんは一個の屋根の下にいて子どもたちを育てる、じゃないけど、オーソドックスな家庭のスタイルで、そのギャップで私は感謝がよりできる、じゃないけども。

父親が家庭にいないっていうことがこんなにいびつだったのかということは、初めて自分が結婚して体験してわかるわけですね。私の場合、最初から父がいなかったから、これが普通って思ってたけども、家庭を作ってみて、お父さんがいると、あ、こんなことまで手伝ってくれるんだとか、存在そのものが家庭の中で、とか、だから、いい悪いとか、何がこうあるべきということは、自分の中ではないんですけど、いろんなパターンを、ここのとこまでは経験してるっていうか(笑)。

武田砂鉄:でも、希林さんの晩年のインタビューで、「なんで自分たち夫婦がこんなに破天荒なのに、也哉子はあんなに素直に育ったんだろうか」というふうに、ちょっと疑問形で答えている感じでしたけど、

内田也哉子:(笑)

武田砂鉄:逆に言うと、最期までそれが疑問に思ってたんですかね。希林さんはね。

内田也哉子:そうでしょうね。まぁ、でも、わかってましたよね。こんなに極端だから、自分たちも。子どもはバランスを取らざるを得なかったんだなっていう。だから、いつも思うけど、親と子って、どんな親子でも、何か反面教師的な、そっくりな部分もあるけど、反面教師的になっていって、それでまた、もしかしたら私の子どもの代はまた破天荒になるかもしれないし(笑)

武田砂鉄:そうですよね。

内田也哉子:それが怖いですよ(笑)。

武田砂鉄:隔世遺伝で破天荒っていう(笑)。

内田也哉子:母は予言していったんですけどね。「次男がちょっと裕也に似過ぎてるから気をつけなさい」と(笑)。

武田砂鉄:(笑)別に気をつけ方を教えてくれるわけでもないですからね。

内田也哉子:ない。「覚悟しときなさい」って(笑)。

 

武田砂鉄:でも、水道橋さんと3人でお話ししてた時に、希林さんが、水道橋さんが「樹木さん、なんか本を出したほうがいいですよ」っていう話を希林さんにしてた時に、「なんで本なんか出さなきゃいけないのよ。私のことは私が一番知ってるんだから、そんなもの読みたくないわよ」っていうふうにおっしゃってたんですけど、でも、今回、共著という形で『9月1日 母からのバトン』という本を出されて、この本の中にも、この本を出すことの葛藤みたいなものも也哉子さんは、希林さんがあまり本というものを出すという意思を持ってる人じゃなかったからこそ。

内田也哉子:はい。全く出したがらなかったので。こんなに、本当に亡くなった次の日から、母は自分で事務所というか、やってたので、自宅に電話がかかってきて、それも過去の話したことを本にしたいとか、いろんな。こんなに世の中の人は、出版社は、テレビ局は、母のことをお料理したいって、興味を持ってくれるんだなっていうのを、最初は驚いて、そして、ああ、ありがたいなって思う反面、これをどこまでオーケーしていい、急に私に権限がきちゃったんですよね(笑)。

武田砂鉄:そうですよね(笑)。

内田也哉子:でも、留守番電話に「二次使用は全部どうぞ」って言ってたような母なんで。

武田砂鉄:それが全部入ってたんですもんね。

内田也哉子:ええ。二次使用なんですよね、結局。再編集されてるだけなんで。だから、そんなにもし、もしそんなに「読みたい」って言ってくださる方がいらっしゃるんであれば、私が無理にそこで突っぱねる必要はないのかなって、ちょっと気が緩んだ、まだお葬式もどうするって言っているうちに、1個オッケーしちゃったら、どんどんどんどんどんどんこんなになっちゃって。

武田砂鉄:業界では「オッケーしたらしいぞ」っていう。

内田也哉子:なってしまっちゃって、その都度私は、とても考えて話し合うんですけど、やっぱ熱意にほだされてって言うとアレですけど。

ただ、この『9月1日』という本は一つ違っていることがあるとすれば、私自身が初めて、母が気にかけていた、不登校の子どもたちが自殺をしてしまう9月1日という日の話を、母から病室で、まさに死ぬ2週間ぐらい前に聞いたので、このことはきっと私がここからつなげていくことでいいのだ、というふうに自分である意味気がついたというか。

最初はもちろん編集の方が、こういうふうな講演だったり、対談だったり、不登校経験者とか、識者の方としてましたよって。それを本にしたいって言われたんですね。それで、ただオーケーを出せばよかったんですけども、その本を読んだり、その前の、母も中で話している『学校へ行きたくない君へ』という本も読ませていただいて、私自身、もう大人ではあったけれども、感銘を受けて、3人の子どもを育てる親としても、こんな現実が日本で自分の身の回りにあったということを知らなかった自分をとても恥じて、そして、本当に素直に、どうしてこういうふうに学校へ行けないことが死につながるのかということも知りたくなったんですね。それで、ぜひ母の部分とは別に取材をさせてほしいという提案をさせていただいて、そこからやっと、母があの時、窓の外に向かって「死なないでね」って言ってた、その切実な思いの真相がわかったっていう感じですかね。

武田砂鉄:18歳以下の自殺者というのが8月後半になるにつれて増加して、9月1日というのが最も自殺が多くなってしまう日というふうに言われている、その日に、希林さんがそういうふうに病室でおっしゃっていたと。

内田也哉子:そうなんですねぇ。

武田砂鉄:希林さん、本当に、存命の頃に、テレビの前とかで、「どうせ私はもう死ぬんだから」とか「いつ死んでもおかしくないんだから」ということを繰り返しおっしゃっていましたけれども、でも、だからこそ、生きるということに対する着眼というのかな、嗅覚みたいなものもすごい、これを読むと、研ぎ澄まされていたんだなっていうことを感じますね。

内田也哉子:私も、小さい時から、母が病気を持ってからよりも前から、ずっと小さい時から、知り合いが亡くなったりすると、必ず連れていくんですよ。お通夜でも。で、「顔を見なさい」って言うんです。私はすごくそれが嫌だったし、意味がわからなかったんだけども、それは、よくその後に言っていたのは、「さっきまで生きてた人がこうしてパタッと死ぬんだよ」って。つまり、人生というのははかないものだし、だからこそ、生きている人たちがより鮮やかに、自分なりに生きるということを間接的に見せたいと。

今はなかなか家庭の中で死って見られないじゃないですか。病院に行くし。そういうことも含めて、母が二世帯住宅で同居したいって言った理由も、私の老いていくさまを、そして、死んでいくさまをちゃんと子どもたちに見せたいっていうふうに、それが理由だったんで、私としては困っちゃいますけど。

でも、例えば病院で治療している時も、お医者さんが「じゃあ、娘さん席を外してください」なんて言うんだけども、「いや、あなたは残ってちゃんと見なさい。こんなことを、こんな処置を人間はされて、それでも痛みを取ったり、生きようとしたりするんだよ」っていう。母は延命治療はしなかったですけど、そんなような、何か自分の人生を身をもって教えるというか、見せてわからせる、じゃないけど、そういう精神というか。

武田砂鉄:でも、希林さんが亡くなる瞬間を見た時に、也哉子さんが、死の瞬間というのと、ご自身が子どもを産んだ瞬間の尊さと、なんかリンクするものがあった、近しいものがあったというふうにお答えになっていましたね。

内田也哉子:はい。それはほんとに、もちろん悲しいし、まさかそんな、病院からようやく家に帰ってきて、たったの12時間後に、それは想定外で亡くなってしまったので、衝撃が大きかったですけど、やっぱり「家で死にたい」って言ってたことは、つまりこういうこと、日常の中で、食卓があって、居間があってっていう、そういう中で、自分が営んできた日常の中で、当たり前に、自然と命が消えていく、ろうそくの火が最後の芯まででふっと消える、じゃないけど、そういう何か達成感みたいのが変にあって、たぶん母の中にもあったんだと思うし、私たち家族も、ほんの数時間でも帰ってこれて、そしてほっとした母の顔を見れたっていうことと、あと、たまたまみんな孫、1人は、長女は大学に、アメリカに行ってたんですけど、裕也までも、父までも、電話でたたき起こして、「何か言ってくれ」って、母の耳元に電話を近づけて話を「しっかりしろ」とか「ちょっと待てよ」って動揺してただけなんですけど、でも、孫がこうやって手を握ってたら、裕也が話しすると、声が聞こえると、母がギュッと手を力、握り返したって言って驚いてたり、やっぱり何か一体感というか、家族という、何の縁だか知らないけど、今回のライフで出会った人たちが、その途中はバラバラだったんですけど、家族は。でも、何かそこで一つのものを共有できた、共感できたっていう温かさとか。

武田砂鉄:本当に、映画で言うと、最後のシーンだけ全員集合、みたいな映画だから。

内田也哉子:そうそう、そうですね(笑)。

武田砂鉄:それがすごいですよね。

内田也哉子:そうですね。

武田砂鉄:あと5分の映画でようやく全員が集合したっていうのは。

内田也哉子:ほんと、そのぐらいバラバラでしたからね。私も外国で暮らしてることが多かったし、父も家にはいないし。

武田砂鉄:それを、映画の最後の5分の全員集合を希林さんがつくり上げたというのは、本当にドラマチックな感じがしますよね。

内田也哉子:そうですねぇ。たぶんプロデューサー的手腕(笑)。

武田砂鉄:プロデューサー気質(笑)。

内田也哉子:最期までね。

武田砂鉄:もうすぐ亡くなられて1年たちますけれども、本であったり、テレビ番組だったり、こうしたラジオ番組もそうですけど、とにかく希林さんの言葉を知る機会というか、あの方はああいうことをおっしゃっていたのよということを聞く機会が本当にふえた感じがするんですよね。

内田也哉子:そうですよね。私は皆さん食傷ぎみじゃないかって思うんですけど。

武田砂鉄:なぜここまで希林さんの言葉が求められているんだと思いますか?

内田也哉子:ウーン、もちろん役者として世の中とは関わってきたんだけれども、よく言ってたように、自分は芸能人として、ある意味公私共に晒してきたと。晒すことによって、自分の人生をまた俯瞰することができて、そのこと自体もありがたいって。最初は嫌だったけれども、ありがたいことにしていったというのがあって、それで、何でしたっけ?忘れちゃった(笑)。

武田砂鉄:なぜこんなに言葉が求められるのかっていう。

内田也哉子:ああ、そうだ。ごめんなさい(笑)。

だから、そういう、自分を常に俯瞰し、すごく共感性の高い人間ではあるから、例えば、隣にたまたま座った人の身の上話を聞いて涙をこぼしたりするようなやわらかさも…

武田砂鉄:喧嘩を止めに入ったりしてるんですもんね。

内田也哉子:とか、そういうことも、本当にもうやめてっていうようなことも平気でやってきた人なんだけども、じゃ、自分の辛い難があった時に、全く涙も流さないし、うろたえてる姿も私は見たことがないし。でも、その強さって、たぶんものすごく人生を俯瞰して見てるんですよね。

武田砂鉄:そうでしょうね。

内田也哉子:だから、そういうふうにできるってことも珍しいなと、私も自分の母だけど思うし、まぁ、晒した上で逃げなかったと。で、別に開き直って、私はこんなろくでもないもんですっていう開き直ってるっていうよりは、どこか恥じらいをいつも持ってたというふうに思うんですよね。

で、父とのことがたぶん一番大きかったと思うんだけれども、世間的にもいろんな事件が起きて、いろんな人に迷惑をかけてるけれども、ずっと人間関係を断ち切ることがなかったっていうこととか、何かきっと、母の言葉そのものというよりも、何となく彼女の生きた年代を一緒に生きてきた世間の人たちが、何か肌で感じる、もしかしたら嘘のなさ、じゃないけれども、別にそれで立派な人間ぶることもないし、とにかく本を出したくなかったのは、形に、自分はこういう者ですというふうに形にはめたくなかった。極端な恥ずかしがり屋な部分があるから、ちょっとつかみ所がないんですけど。

武田砂鉄:僕、この解説を書かせてもらう時に、樹木さんの言葉をいろいろ振り返ったんですけど、一番印象的だったのは、これは『AERA』のインタビューで答えているんですけど、「私の話で救われる人がいるって? それは依存症だ。あなた自分で考えなさいよ」ということをおっしゃってて、それって、今出ている本を全部否定しちゃうことになるかもしれないんだけれど、でも、いい言葉をいただくということじゃなくて、希林さんてたぶん「あんたが考えなさいよ」っていうことをずっとおっしゃった人だと思うので。

内田也哉子:はい。で、子どもである私にも、家族にも、みんなにもそうだったんで、あんまり生ぬるい関係は求めなかったんでしょうね。母自身が。誰とでも。子どもに対してでも。

武田砂鉄:そうなんでしょうね。そこの徹底っぷりが本当にすごいなと思いますね。

内田也哉子:なんであんなに強かったのかって思うんですけど、たぶん私は、すごくロマンチストなんじゃないかと思うんですよね。究極の理想を持って生まれて、それを自分がどうやってそういうロマンを描いていきたいかっていうのは、わりと明確だったんじゃないかなと。だから、ブレないし、ウーン、すごく遠い存在ですね、私からしたら(笑)。

武田砂鉄:それ、僕の好きな竹中労という人も、「群れない」ということをずっと言ってた人なんですよね。「群れるから弱くなっちゃうんだ」ということをおっしゃってて、それは本当に希林さんにしろ、竹中さんにしろ、すごく通底するところだなというふうに思ったんですよね。

内田也哉子:そうですね。

幸坂理加:そろそろお時間になってしまいました。すいません。

内田也哉子:あっという間。

幸坂理加:あっという間でしたね。もっと話を聞きたいところではありますが、今日お話しした『9月1日 母からのバトン』は、ポプラ社から発売中です。

武田砂鉄:也哉子さん、本日はどうもありがとうございました。

幸坂理加:ありがとうございました。

内田也哉子:ありがとうございました。

幸坂理加:本日のゲストアクション、内田也哉子さんでした。