映画『流浪の月』を観て

映画を観ることがままならない日を送っているが、『流浪の月』は2回観ることができた。ありがたい。

月、空、湖、川、鳥、カーテンの揺らぎなどの映像の美しさ、洗濯機やクラクションなどの生活音、劇半と呼ばれる音楽(子ども更紗が文の部屋で自由を取り戻したときだけポップな音楽)、役者さんの演技に引き込まれて、2回とも2時間半があっという間だった。そして、いまだに余韻がすごい。

特に思い出すのは、文が母親に問いかける、否定してほしかった言葉を否定してもらえなかった場面。思い出しては涙があふれる。母親に否定してもらえたとしても文の根本的な悩みが消えることはない。しかし、母親に否定してもらえなかったことによって、その悩みはさらに色濃いものとなったことだろう。だから、ラストの文の告白には涙がとまらなかった。

ストーリーは、原作を読んでいないとわからないのでは?と思われる部分もあった。両親がいたときの更紗のキラキラな様子が描かれていないから、更紗の本来の性格を、文と暮らしているシーンだけを観て推し量るのは難しいかなと思う。でも、亮といるときと文といるときの更紗の表情は明らかに違ったから、それだけでもいいのかな。

文が幼い更紗の唇に触れたことで、小児性愛者なのか、そうじゃないのかというツイートを幾つか見かけた。原作を読んでいれば、唇を触ることで、自分が小児性愛者なのかを試してみたけど、そうじゃなかったことがわかるというのが言葉で書かれているからはっきりとわかる。映像だけでも、そのシーンと、湖で捕まるときに手をつないだ以外に文が更紗に触れる場面がないことから、小児性愛者ではないと想像がつきそうなものだけど…と思うが、それは難しいのだろうか。

谷さんの描かれ方も十分じゃないので、可哀想というか、もったいないなかったし、梨花ちゃんとのシーンはもっと観たかったなとも思ったけれど、映画オリジナルの部分はどこもかしこも素敵だった。文の声で朗読されるエドガー・アラン・ポーの『ひとり』の至福なこと。動物園から湖に舞台が変わったことで、湖に浮かぶ文、湖にもぐる更紗の場面も、観ていて苦しいけれど、とてもよかった。

横浜流星さんは、ドラマ『新聞記者』に出ると知ったときから、この人はキラキラ系だけで終わるつもりのない人だなということは想像がついていたけど、これまで演技を観たことがなかったので、衝撃を受けた。亮その人だった。

広瀬すずさんは、『海街diary』の瑞々しい演技、『怒り』の泉ちゃんを知ってはいたけど、そのときからまた数段よかった。紛れもない更紗だった。幼い更紗を演じた白鳥玉季ちゃんがまた素晴らしくて、時に大人びて見えたり、子どもっぽかったり、また大人更紗とのリンクも素晴らしかった。

松坂桃李さんは、文役が発表されたとき、イメージが違うと言われることも多かった。確かに“白いカラーのよう”というのが桃李さんとは違うけど、違うのはそこだけで、あとは絶対に文になるから、と思っていた。そしてそのとおりになっていた。凄い。光のない真っ黒な穴のような目、ギリギリまでやせ細った体。瞳の演技は相変わらず素晴らしかった。

もうだいぶ上映回数も減ってきて、私はもうスクリーンで観られないのだと思うとさびしいけれど、Blu-rayが出たら見返して確かめたいところがある。原作にある“もしかしていま笑った?”というシーンが映画の中にあった気がしたのだけど、それが原作と同じところなのかどうか。監視されていた離れの壁に貼ってあったメモを触っていたシーン。更紗が川沿いを走ったり、calicoを覗いて文が見えたところが使われていたとすずちゃんが言っていたシーンなどなど。

月の形はいつも同じだけど、見る角度によって見え方が変わる。更紗と文の真実を知っている観客は、圧倒的に更紗と文の味方だけど、映画の中の人たちだったらどうだろう。

更紗は文に会わなければ亮くんと幸せに暮らせたのだろうか。文は更紗に会わなければ谷さんとうまくやっていけたのだろうか。自分をごまかしながら何とかやっていくことはできたかもしれない。でも、ずっと居心地の悪さを抱えたままだったろう。やっぱり2人は再会できてよかった。魂がつながっていること、それはおとぎ話かもしれないけど、物語の中だけでも幸せになってほしい。