北條民雄『いのちの初夜』について語られたことの一部

 

100分de名著 北條民雄いのちの初夜』(1)せめぎ合う「生」と「死」 2023年2月6日

 

中江有里ハンセン病の宣告を受けた後に北條民雄は映画館に行ってキートンの『喜劇王』を観たというふうに書いているんです。自分の今置かれている状況と全く違う、ちょっと明るい楽しいところに行くんですけど、その時に「俺はへこたれないんだ」と言っているんですけれども、でも、その一方で、夕方になって感傷的になってくると、「やっぱ俺どっか行きたいな」というふうに気持ちが入れ代わるんですよね。

伊集院光:この混じり方がリアリティなんだなと思うのは、「あの日からずっと絶望し続けています」という話も、「ずっと希望を持っている」という話も、やっぱりちょっと整理整頓された話だなという感じがしちゃうのが、ここを行ったり来たりしていることこそが、人ってそうだよねって。もう死んじゃいたいなと思うのに漫画は読むとか、それにつけても『8時だよ!全員集合』はおもしろい、みたいなことって同居するんだよね。全く同居して、死にたいなって言ってるのに、ドリフ観て笑っているのを見て、「死にたいなんてウソじゃんか」って言われちゃうと、きついんだよね。その揺れとかをこの本が認めてくれるのならば、助かる人はいっぱいいると僕は思います。

中江有里:まさしく感情がアンビバレントに入れ代わっていく。「生」と「死」がどんどん入れ代わっていく。ずっと入れ代わるのが北條文学の核というふうに私は捉えています。

(中略)

中江有里:徳島というのはお遍路が有名ですよね。お遍路で回ってくるハンセン病患者の方もすごく多かったそうなんですね。だから、おそらく北條民雄は、幼い頃からそういったお遍路の参る方というのをずっと見ていたと思いますし、その中にハンセン病患者がいるというのも知っていたと思うんですね。

伊集院光:わぁ、それも辛い話だなぁ。健康な側から見て、触らないほうがいいと思うし、親も近づけないほうがいいと思う。この目線が子どもの頃から育っている人が、いざ病気になりましたという時に、内なる差別感みたいなものがプラスされていくでしょう。どうやったって。

中江有里:だから、北條民雄自身もそれに「差別」というふうに名付けなくても、何かまなざしが違うというか、今まで自分がハンセン病患者に注いでいたまなざしをそのまま向けられているという、その違和感とか苦しみみたいなものを実感したんじゃないかなというふうに思います。

伊集院光:僕、小学生の時、すごい優等生だったんです。学校へ来ない子とかをだらしないと思ったし、可哀想と思ってたんです。でも、高校に行って、僕、学校へ行けなくなるんですよ。その時に、そういう目で見てる人の視線をキャッチしちゃうんですよ。あ、あの人たちは俺を哀れなやつだと思っている。そうすると、自分が今まで正しいと思ってた区別感みたいなものは、おそらく、なった時の差別感として重くのしかかるんでしょうね。同じとは言わない。でも、似てると思う。