書きとめておきたかったこと

 

今泉力哉監督&大下ヒロトさんのインスタライブ 2021年2月24日

 

これは、俺がいつもやろうとしてることなんですけど、どこまでがセリフで、どこからがアドリブかをわかんなくしたいというのをずっと言ってて。

 

群像劇って、主人公で始めて、主人公でガンガンいくと、主人公のために周りの人が存在している世界になっちゃうんです。群像劇は主人公じゃない人から始めると、主人公もその世界の住人になるし、周りにいるただの人も生き物になるというのは、別に誰も言ってないですけど、いっぱいつくっている中で結構俺はやってて。という意識下にありますね。だから、違う人から始めれるというのはいいんですよね。

 

太賀さんの役、目立つし、ドラマチックだし、山場も何もかもあるから。土下座しかり。太賀さん主役だとか、太賀さんの映画だとか、目立つと言われてるけど、いやいや、主人公って目立つのが主人公じゃないんで。明らかに松坂さんがあんだけ受け入れて真ん中にいるから成り立ってるってことは、わかっている人はわかっているだろうし、言う必要もないし。(中略)全然俺の中ではコズミンの映画だというふうになっていない自信が全然あったので。そのぐらい俺は松坂さんの芝居とか劔っていうのは信用してましたし。

あと、一方で、成長する、しない話があるんですよ。主人公は成長しなきゃいけないとか、何か変化して大人にならなきゃいけないとか、俺、それがあんま興味なくて、それじゃなくても主人公たり得るんじゃないかとずっと思ってて。だから、別に、成長とかして経験を積むことはあっても、何かを乗り越えたり、変化したり、すごく成長しなきゃいけない、主人公はそうあるものだというのは、俺はないので。そういう映画もつくりますけど、でも、しなくていいと思っちゃうというので、明らかに劔主人公の物語だと思ってますね。

でも、原作もそうなんですけど、原作者の劔さんも言ってましたけど、自分の話じゃなくて、これは自分の周りにいた仲間との時間の話なので、主人公は劔で、主人公は時間と仲間たちと共有したものとかなのかなと思うので。難しいんですよね。一人称で語る、語らないみたいなのもあって。だから、コズミンの時間がちょいちょいあるのも、一本筋を通したほうで観たい人としてはノイズだし、コズミンが強くなり過ぎた要素だと思うんです。